主体論 

好評だった前作に続き書かれた2作目。我々という主体の存在に迫る哲学論文4部作。

 

我々という主体は、空間的広がりと時間的広がりの中で考えられる。 

主体論は一つの主体の広がりという観点から考えられる。 

空間的広がりというものは、自分という存在の境界を空間的に何処まで広げるのかという問題である。 

人間にとって、自分という主体にとって、心臓とかの臓器や細胞をひとつの主体と考えることは難しい。それは部分である。勿論それは一つの境界線であるが、それが主体として存在するのは、臓器移植といった特殊な場合である。しかし、遺伝子を主体とする考えもある。その一方で国家や民族や宗教もそこに帰属する人間の自己犠牲の精神を踏まえそれぞれが主体となりうる。 

更にそうした自分を中心とする主体・境界線という観点からすると自分が運転する移動中の車、自転車なども一つの境界線を持つ。丁度、我々という大きな集団の一部に自分が存在するように、その大きなトラックや自転車の中の一部に、自分が存在しているといえる。 

 


こうした空間的広がりは、更に生態系という観点からも想定できる。つまり人間が生命を維持し活動するには、食物を食べなければ生きていけない。例えば、一匹のライオンが生きていくには、彼のえさとなる草食動物や肉食動物が必要である。 

その草食動物が食べる草や木の実が必要であるし、その肉食動物が食べる草食動物が必要である。そうしてその植物が生きる上での昆虫や、日光や、地下にある成分が必要である。こうした食物連鎖から一つの生態系が生まれる。人間も、生物としてはその生態系から孤立して生きていくことはできない。 

更に、地球がこうした酸素密度の空気を持っていること、気温が今のレベルで一定であることなどある。こうした生態系や環境も含めて、私を成立させる要素と考えると、そこまでが大きな「自分」の範疇に入るということすらいえる。 

「自分」の空間的広がりとは、したがって単純に(私)を我々という複数で捉えるだけの議論ではない。 

つぎに、時間的な主体の広がりということを考える必要がある。 

それは、自分がどこまで過去、未来に拡がるかということである。 

例えば、生命の進化という観点で、遺伝子上、人間がサルから派生したとする。そのサルが哺乳類を祖先に持つ。その哺乳類の祖先は、生命の上で無限に連なる祖先がいるといわれる。自分は親から生まれその両親が存在し、そのまた両親が存在する。自分が自分だけで自己完結して生まれてきたわけではないし、その両親の遺伝的形態を伝承している。 

こうした生物的連携は、家系においても存在する。家系においては、先祖崇拝、先祖供養といった、時間的な尺度において我々の意識の連続性が存在する。何故ならば、こうした先祖崇拝が、自分の家系に対して行われ、他人の家系に対して行われないという現象自体が、そこに血縁の存在があるからである。 

つまり、血は水より濃いというときに、それは血のつながりが自分という存在の時間的延長にあるという認識に基づくからである。 

次に種としての拡張がある。これはすでに【私】の時間的拡張で述べたように、人間としての自分が、その人類という境界線の中の一部であり、それが動物の境界線の一部である。更に生命という存在の一部である。という意識の拡張である。人間は、自分に近い哺乳度物には喜怒哀楽の感情を持つ。その感情は、昆虫などに対しては希薄である。 

また、文化的拡張を述べたが、人口的な部分も、すでに述べた自動車や電車、飛行機が人間の運動機能の拡張とすれば、そうした人間が道具として作っている機械的なもの、ものなど、人間の拡張となる。 

更に、主体は、人間が作る文化が主体で、人間が部分であるという考え方も生じる。やがて人間が存在しないが、ロボットによって我々の文化が変形してのころこともあるであろう。そして、人工は自然の一部と考えると、生命工学を人間に適応するという構想も生まれてくる。 

人間は物事を人格的存在として認識することと、やがて集団的勃起の時代が来ることを説く。